Onkochishin.

古きを知り新しきを知る、

 

古きを捨て新しきを得る、

 

どちらの諺もありますが。

 

今日みたいな雨の日は、庭師に限らず外で仕事する職人さんは基本的に仕事しません。(最高でしょ?)

 

こんな日見習いの頃には、よく座学の時間がありました。いまどき珍しいと思いますが。

 

机に座って最初に見せられたのは「日本の庭園」みたいな古いタイトルのビデオ。

 

平安時代にまで遡り、その後この国の庭という概念がどう変遷していくかを延々追ってくような内容。おもしろくて借りて帰りました。

 

むかしから、突然車を飛ばして京都の寺院や庭園を眺めに行くほどでそういうものはそもそも好きです。

 

それ以降も師匠に連れられ京都へは何度も足を運びますが、すでに訪れた所もあれば知らない所もあって、さらに庭師というフィルターを通して見るととても新鮮でした。

 

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大陸から渡ってきた宗教や思想や文化から、平安貴族の豪華な庭園が生まれ、室町で下々の枯山水革命があって、江戸や近代の造園師によってさまざまな変遷を遂げてきた。

 

おもしろいことに、それは歴史は違えどフランス式庭園からイギリス式庭園への変遷にも似てます。

 

つまり手法は違えど、日本とイギリスは限られたスペースのなかに自然のミニチュアを作ろうとしたんですね。

 

日本式は山があって川が流れ橋を架ける、そういう抽象的イメージ的なもの。イギリス式は栗鼠が棲むと完成する、みたいな具体的リアル主義で。

 

でも根底にあるものは似ている気がします。

 

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その自然をミニチュア化したものが庭だとすれば、近頃また脚光を浴びている盆栽は、庭にある木をさらにミニチュア化したもの。

 

私たちは実物大の木をこうするのですが、盆栽の木というのは大きく育たないよう根を切り詰め、鉢の中に収めるわけです。言い方は悪いですが中国の纏足みたいなもの。

 

以前、そのブームを扱ったテレビ番組を昼飯時に見ていて年配の職人さんがこう言いました。

 

「こんなもん盆栽じゃねえ」

 

番組では若いひとたちが作った盆栽が紹介されていて、鉢には木や小さな花、さらにおもちゃの動物までいる賑やかなものでした。

 

たしかに「一盆一樹」が基本の盆栽。「盆栽じゃねえ」気持ちもわかるのですが、私はまあアリかなと、、そう感じまして。

 

頭ごなしにNOもわかりますが、文化って新しいものと交わり時には勘違いしながら、そうやって進化するものじゃないですか。

 

さらに庭だって庶民がなかなか手にできない時代。とすればテーブルの上に小さな庭を作るのもいいかもしれませんよね。

  

さて、

 

いま私どもがやる庭づくりは、月日が経てば草木は伸び、雑草も生える。しかしそのワイルドさをもって完成に近づくような庭が理想。だとすればイギリス式かと思います。

 

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ですが、たまにこうして灯篭を立てる自主練も欠かしません。

 

古きを知らずして新しきものも得られず。

 

といったところでしょうか。

 

 

ではまた。