Aptitude.
問題はそこから。
努力だけで乗りきれるものと、そうじゃないもの。
知識とは別の、テクニックやセンス。
たとえば剪定(木の枝葉を切って整えること)ひとつとっても、それはロジックがあって「どう切る」かは教本をみれば書いてあります。
ですが「どうすると美しいか」は経験やセンスしかありません。
間違ってるわけじゃない、でも上手い下手がある。さらにある程度を越えたら、それはもうそれぞれの主観や好みでしかなく、最後には答えもない。
熟練の職人が十人集まっても、十人違う剪定をします。アートや音楽と同じですよね。
そういう意味では自身にも器用さやセンスみたいなものが、そもそも備わっていたのかなと思います。自画自讃ではなく。
暫く前に、ホリエモンさんが「寿司屋の修行を十年もやるやつは馬鹿だ」みたいな発言が物議を醸してましたけれど、
たしかに言い方は乱暴ですが、私なりに解釈すれば、
三年やって向いてないなら十年やっても同じ。逆に三年やって頭角が現れるなら十年やったらもっとすごいことになる、でしょうか。
あのオジさんみたいな、ただでさえ向いてないなってひとが十年耐え忍んだら素晴らしい庭職人になれるのか。疑問です。
もっといえば修行って、生まれた時からずっと修行じゃないですか。
そういう遊びや興味の積み重ねが、やがて大人になると、適正みたいなものに繋がる気がします。
それではまた明日。